イラスト / 宮城 厚
謝名親方を知っているだろうか?
知らない人は少ないだろうが、あえて言うと
謝名親方は沖縄を薩摩の侵略下に置かれることを
最後まで拒み続けた沖縄の英雄である
かの謝名親方は1549に今の那覇市天妃小学校のあたり
当時でいう久米村という所で金松という名でうまれました。両親も久米村の出身で
そのころの久米村の住人は、明国(現:中国の一部)からやってきた人が
ほとんどで、服装も明国のもので変わった村として評判でした。
しかし通訳や航海術などに長けた人達だったことは言うまでもいない
さて金松が謝名親方利山とよばれたのは50歳のころ
そのころ明国の争いで兵を出せ!と叫んでいた豊臣秀吉も亡くなり
尚寧王の冊封がいよいよ近く行われることになりました
首里城内では3司官を始めとする人々が重苦しい雰囲気の中
「薩摩から大島を引き渡すか、かわるものをわたせ」
と言われそれについて多くの意見がだされていた
一方まとまらない意見の中から
隅にいた謝名親方が発言を止めて入り
「十年前、太閤(豊臣 秀吉)が朝鮮に攻め入るときに、兵を送れだの食料を送れだの
と申されましたが、時の三司官は断った。我々もこたびの島津に申し入れを受けるより
やがて来られる天使様の一行を迎える準備に力を入れましょう」
と言って意見をまとめ
そのことをきっかけに謝名親方は尚寧王に三司官に任じられました
さて、このように明国との関係を大事にする琉球国は
薩摩の島津家に怒りを買い
1609年に4月1日
かねてから琉球に攻め入っていた島津は今帰仁を落とし
那覇港にも大小様々な軍船がつき陣を構え
総攻撃が始まり首里城は取り囲まれ
「これ以上戦を続けて人々の血を流すわけにはいかない
我々、三司官が人質になり、戦をやめてもらおう」
と謝名親方は提案し人質となり那覇で和平の交渉をしました。
そして謝名親方らは薩摩に連れて行かれ
薩摩の人々は
「あれが謝名親方か?立派な顔つきじゃ、敵ながら天晴れである」
と口々にしたそうな。
薩摩に連れてこられて三度目の秋
一日も琉球の事を忘れたこと無い謝名親方らの下へ
帰国の許しがでて、国王の家来達は手を取り合い
涙したが。
「琉球は薩摩に感謝し子孫代々まで恩を忘れず真心で
使えることを誓います」
(文献によると、二年間も薩摩に捕われた尚寧王(しょうねいおう)が帰国
する1611年9月、薩摩は琉球に対する政策を15条にまとめ調印を求めました。
この15条の中には、琉球は薩摩藩が許さない商人とは取り引きしてはならず
薩摩藩の命令の他は中国との貿易をしてはならない、また琉球から他国に商
船を一切だしてはならない、など様々な拘束がありました。)
との条件でした
署名をかかされるなか
「合点がいかぬゆえ…」と
謝名親方は一人拒み続け
1611年9月19日
謝名親方は自分の信念を貫き通し
斬首されました。
謝名親方は、長崎に来航した中国船にひそかに明国の救援を願っていましたが
、これは失敗に終わりました。
薩摩の管理下で編纂された琉球国史「中山世鑑」には、国難を招いた元凶とされ、「邪名」という蔑称で記されているが
中国側は、謝名親方を「国難に殉じた忠臣」として評しています。
今の時代に謝名親方のような人物がいたらと思うと
非常に残念である
今の時代に自分の信念を国の為に貫き通す英雄がいたら
その人に是非とも「親方」と呼んでみたいものである。